ラグジュアリーブランドを纏う流儀

コロナ禍におけるラグジュアリーブランドの驚異的な成長

ラグジュアリーブランドの躍進が止まらない。

ラグジュアリーブランド世界最大手であるフランスのLVMHグループはコロナ禍においても劇的な成長を見せ、LVMHグループの会長兼CEOであるベルナールアルノー氏はこの記事の執筆時点では世界で最も裕福な資産家として長者番付に名を連ねる。

そして、GUCCIを擁するケリンググループ、Hermèsを擁するエルメスインターナショナルもまた、コロナ禍においても大きな成長を見せ、ラグジュアリーブランドは過去に類を見ないほどの売り上げの好調が続く。

これには様々な要因がある訳だが、ファッション業界を長く見てきた私は世界的に蔓延する不安感が強く影響していると思っている。

経済不安が広がると金の価値が上がるように、不安なときには希少性があり、流動性があり、信用性があるものに人は依存する。ファッションの分野でも同様だ。ロレックスやエルメスは上代を大きく超える価格で流通し、資産価値があるのと同時にステータスやファッション性も担保する優良資産と化した。

もちろん、リセールバリューは金などには及ばないが、人は悲しいかな装う事は辞めれない。物欲は抑えきれない。どうせ装うのであればステータスがあり、リセールバリューも高く、丈夫で信用性のあるものを買おう。その他のものはファストファッションで良いだろう、といった打算的な考えで消費の二極化が起きる訳だ。

富裕層に至っては、優良資産なのであればいっそ全部固めてしまおう、と言わんばかりにブランドアンバサダーかのような全身フルコーディネートで購入する。昨今のユーチューバーなどを見ていて思うが、ブランドの製品は身に着ける衣料としてだけではなく広告としても使えてしまうもので、SNSでの集客に使っているインフルエンサーも珍しくない。

それほどの優良資産な訳だが、そういった考えは私の視点からすると全く豊かではない。根本的に今の時流はラグジュアリーブランドを身に着ける流儀というか粋な部分が何もないのだ。打算的な思考は効率は良いのかもしれないが豊かさは失うのではないか。

そもそもラグジュアリーブランドは高付加価値の歴史と信用のある製品であり、末永く使う事が出来ることが前提だと思っている。大量生産、大量消費のスパイラルの渦中には無い存在のはずだ。それならば、リセール前提で打算的に買うのではなく愛着を持って使い倒す前提で購入したいものだ。

ラグジュアリーブランドのブランド力に支配されるのか使いこなすのか

ラグジュアリーブランドのブランド力は強力だ。アイコニックで華やかで一目見ればわかる。ルイヴィトンのモノグラムを代表にラグジュアリーブランドの戦闘力(価格ともいえる)は非常に高く、認知もされている。そのため、戦闘力を上げたくなりついつい見様見真似のフルコーディネートでブランドアンバサダーかのような恰好を目指してしまう人が多いのだろう。ただ、あれはあくまで広告塔なのだ。消費者が広告塔を担う必要はないし、LVMH側の個性であり、その人の個性ではない。個性のコピーは個性ではないのだ。

そして、ラグジュアリーブランドの強力な個性にコーディネートを合わせようとすること自体が難しい。個性が強すぎて合わせようとすると同じブランドをチョイスしてしまうことになる。合わせるのではなくハズすのだ。

ファッションにおける「ハズし」はブランドヒストリーやテイスト、TPO、さまざまなことを考慮、尊重しながら納得のいく異物を入れ込むこと。例えばミリタリーテイストを忠実に再現したら軍モノオタクになってしまうように、歴史やテイストを忠実に再現すればお洒落というわけではない。それはラグジュアリーブランドに置き換えても同様だ。

実は私もルイヴィトンのモノグラム製品は非常に好きで愛用している。ただ、私の場合はステーショナリー系のアイテムに限って購入している。ビジネスにおいて、使うもの。手帳カバーや名刺入れペンケースなど、ビジネスで対面する際に相手に面で見えるようなアイテムを統一している。

天邪鬼な私は本来ビジネスでは極力落ち着いたものを使用することが常識なところを個性としてモノグラムを使いたいという事で使用している。ただモノグラム製品はこれ以上は広げない。そして、バッグやドキュメントケースは対象的なものを使用する。PORTERのタンカーのヘルメットバッグだったり、フィルソンのオイルドキャンバスのバッグだったり。ラグジュアリーなものに対してミリタリーやガチガチのワークテイストを絡める。

使い込んだミリタリー、ワークのバッグから経年変化したモノグラムのステーショナリーを取り出すと親から受け継いだものかのような雰囲気を醸し出す。意外性も演出出来て、ビジネスの相手の興味もそそる。あくまで身に着けるモノは「自分」を引き立てるための道具なのだ。主役は「自分」であり、モノは脇役だ。ラグジュアリーブランドを主役になんか決してしてはいけない。

そして、もう一つ危険なのは一点豪華主義だ。

一点豪華主義とは一つの高級品を持ち、その他はファストファッションなど安価なもので倹約をするスタイルだ。これ自体を否定するつもりはない。高級品を持つなら、他も高級品で固めろなどとは言うつもりは全くない。ただ、ラグジュアリーブランドの高級品を手抜きの免罪符にしてはならないという事は強く言いたい。

「チープ・シック」という1970年代のファッション哲学の名著があるのだが、約50年前に書かれたものとは思えないほど的を得ている。お金をかけずに安いもをシックに着こなす内容なのだが、安くて良いものを探す以上に着こなしの工夫や考え方の重要性に気づかされる。

そもそも一点豪華主義は、江戸期に行われた奢侈禁止令が影響して日本に根付いたと言われている。いわゆる贅沢禁止令で身に着ける衣服にまで制約がかかった時代だ。幕府に身に着ける物を制約される中で、何とか抜け道を探し、工夫して豪華なものを持とうとする豊かさを求めた結果なのだ。

そう考えると、豪華なものを持てばあとは何でもよいわけではない。その他が安いものだったり制約があったりしたとしても、工夫やその他を愉しむ姿勢が大切であり、それこそが豊かさにつながるのだ。

ファストファッションのネイビーのウールカーディガンのボタンを金ボタンに変えてみると、プレッピーなアイテムに変化する。そんな工夫が楽しく豊かなのだ。

ラグジュアリーブランドの戦闘力を見せつけて豊かになどならない。ただの経済力の競争なだけで空しいだけだ。そんなものよりラグジュアリーブランドのブランド力に支配されることなく、使いこなす。それは自分らしさの演出としてラグジュアリーブランドに脇役を担ってもらおう。ベクトルはモノではなく自分に合わせて楽しむことこそが豊かなラグジュアリーブランドの愉しみ方、流儀だと言えるだろう。

 

 

ラグジュアリーブランドを脇役にする力を持つ逸品たち

人生の様々な考察、シーンに合わせた装いの提案、I SUGGEST。今回はラグジュアリーブランドのブランド力に支配されないためのチープシック的なアイテムを紹介したい。もちろんラグジュアリーブランドの何に合わせるかによって大きく変わってきてしまうので、個別最適化していく必要があることだが、ポイントは誰もが簡単に入手でき、荒っぽく扱って映えるもの、そしてラグジュアリーな雰囲気と対象的ながらもフィットしてしまう、そんな品々を紹介していく。

 

FILSON ラギッドツイルシリーズ

フィルソンほど頑強なイメージのあるブランドは他に無いのではないかと思うほど、代表的なワークブランドであり22オンスの極厚のラギッドツイルを用いたこのシリーズはラグジュアリーブランドを脇役にしてしまう力がある。そして案外ドレス対応できてしまうようなデザインも多く、使い込んだラギッドツイルはカジュアルにもドレスにも広く対応する。キャンバス素材ながらも一生モノとして長く使い込んでいける逸品で是非ともお勧めしたい。

土屋鞄 トーンオイルヌメシリーズ

土屋鞄は鞄職人、土屋國男氏が1965年に創業した日本の鞄ブランドだ。ランドセルの製造から始まり今もランドセルは高い人気を誇る。ブランドヒストリー上、ランドセルのイメージが非常に強い土屋鞄だが、このトーンオイルヌメと呼ばれるたっぷりとオイルを含んだヌメ革のシリーズは雰囲気たっぷりの良品だ。柿渋だけで染めたナチュラルな発色や柔らかいシルエットは見るまでもなく今後の経年変化を想像させる。長い年月をかけて自分のものにしていきたい逸品で、ラグジュアリーな雰囲気とは対照的な優しい品。ラグジュアリーブランドとともに使用することによって、新たに購入したものであっても、ラグジュアリーブランドの角が取れ、昔から使っていたものかのように馴染んでくれることだろう。

ファッション哲学の名著 チープ・シック

最後は記事の文中にも登場したファッション哲学の名著、チープ・シックだ。1979年に初版が販売されて以来、約50年経過する訳だが今もなお売れ続けている歴史に残る名著と言える。まだこの時代は大量生産、大量消費についての危機感がない時代。だが、作中にはサステナブルな要素も盛り込まれており、洋服に対しての向き合い方と、自分らしさ、自分へのベクトルの合わせ方を考えるきっかけになるだろう。