老害という言葉はパラダイムシフトが及ぼす自然現象に過ぎない

老害は本当に個人の責任なのか

若い世代で「老害」という言葉が常用されている。

何故このようなことになってしまったのか。様々な原因が考えられるが、よく耳にするのは非常に表層的かつ短絡的な言葉ばかりであまり参考にはならないが、どうやら、変化を嫌う頑固者で、成長を目指さず保守的で、若い世代の意見や成長を阻害する存在、というような認識のようだ。

本来、年長者は尊敬されるべき存在だったはずだ。「年の功」ともいわれる人生経験による知識、情報の豊富さや、道徳心、倫理観、年齢を重ねることによって、肉体は衰えても人としての精神の完成度は上がってくる。これが今までの老人に対しての前提となる考え方だったように思う。

もちろんこの考えが消えて無くなってしまったわけではない。個人によって大きく差はあるものの、生きる時間は学びであり、その時間を長く過ごした年長者は当然ながら若い世代より見聞きした経験は多い。

ただ、人間はすべて自分が体験した情報で形成されている訳ではない。新聞や本、TVやインターネット、さまざまな情報を様々な経路で取得する。情報を取得する経路は時代によって大きく変わり、情報取得経路は世代にとって代わるのだ。

例えるなら、全く同じ人間が二人いて、それぞれ違う時代を生きたとすれば、全く違う人間になるだろう。それはその時代の背景や情報の取り方、体験するものなど先天的な性質を大きく変える後天的なものがあるからだ。

そう考えると、世代によってのメディアの変革が老害を生み出す大きな原因の一つだと考えることが出来る。多感な時期に使用するメディアや長期間目にしているメディアは、その人の情報取得のメインとなり価値観を形成するうえで大きな要素となるからだ。そのメディアの形や質が全く違うものだとするならば、世代によっての価値観は大きく変わり、格差が生まれてしまう。

世代別のメディアの発達とパラダイムシフト

日々、イノベーションは起き続け、情報革命は進んでいる。近年のメディアの発達は目を見張るものがあり、直近30年で情報を取得するツールは大きく変わり多様化した。

太古の昔、言語が開発され、文字が生まれ、文書が生まれた。メディアの誕生だ。文字が生まれたのは紀元前4000年ごろ、筆記媒体に関してはエジプトのパピルスを代表に紀元前3000年ごろのものが発見されている。そこから時は流れ、印刷技術が生まれ1605年、ドイツの「Relation」が世界初の週刊新聞を発行。日本においては1872年に現在で言う毎日新聞が東京日日新聞という週刊新聞を発行したことが最初とされる。

新聞が生まれる以前も書物や瓦版などといったメディア媒体はあったものの、あくまで限定された一部の人間のみしか手にすることが出来ず、容易に平等に入手できる週刊新聞の発行が社会に大きく影響を与えたことは言うまでもない。

週刊新聞のようなメディアが生まれる以前は、純粋に目にしたこと、聞いたことしか情報取得の経路が無く、情報の真偽もクオリティもバラバラだ。

新聞と言うメディアが誕生したことにより、内容はともかくとして、情報の標準化が出来る手筈は整った訳だ。ここでパラダイムシフトが起こる。世代別に新聞を手にする世代としない世代が産まれたとしたら、若い世代が新聞を手にし、中高年層が見向きもしなければ老害が発生するのではないか。

やがて新聞からラジオやテレビに移行し、時を現在に戻すと、インターネットが普及し、多様なSNSも産まれ、新聞が産まれた時代より遥かに情報取得経路は多様化している。

十二分に分断する地盤が整う訳だ。

2004年にFacebookが誕生し、瞬く間に世界に拡がった。2006年にはTwitterが、2010年にはInstagramが産まれ、You TubeやTikTokなど数え上げればきりが無い。

テキストから画像へ。画像から動画へ。動画もまたショートリールのような分かりやすいものへ変容していく。多くの情報量を如何に短時間で分かりやすく取得するかというせめぎあいになりつつある。

また、メディアの民主化も同時に進んでいる。誰でも発信の機会を得れる時代となった。独自ノウハウと設備を持ったメディア会社でなくても、簡単に自らがメディアを持てるのだ。

新聞社や放送局、各メディアは右派、左派、特定のスポンサーなどステークホルダーによって発信の内容は大きく偏ることは既に周知の事実だが、メディアの民主化によって更に多様化した。コロナ禍において、それは更に加速したのも間違いない。

そんな目まぐるしく変わる情報の流れの中で、未だお気に入りのテレビチャンネルしか見ないような状態の老人が居たとすると、やはり情報格差は生まれてしまうだろう。

常識は時代によって変わる

昔の映画やテレビ番組を見ると驚かされることがある。例えば喫煙シーン。当たり前のように画面の中でタバコを吸うシーンが流れていたあの時代。今となってはメディアでタバコを吸うシーンなどなかなか目にしない。私の学生時代は学校の職員室で普通に先生方がタバコを吸っていたし、街中に灰皿があった。今となっては考えられないが、喫煙を取り巻く環境はほんの数十年前とは全く違うものとなった。

この時代を過ごした人間と、現在の喫煙環境しか知らない若年層は確実に受け取り方は違うだろう。

そして、コンプライアンスやモラルにおいても、昔と今では全く違う。昨今ではハラスメント行為に関して非常に敏感な時代だ。一つ間違えばたとえ大企業や権力者とて失脚する原因にもなる。だが、一昔前ではどこの会社でも横行していたことでもある。現に私の世代でも殴られ蹴られ罵声を浴びせられることは普通にあった。ここ20年で大きく変わったと思う。今はメディアが民主化した時代だ。いかにもみ消そうとしてもすぐに情報は拡散する。マズいことをしたらすぐにバレてしまう世の中で、社会的な制裁は昔と比べてはるかに厳しいものになった。

妊娠や出産などセンシティブな内容においても、一昔前は普通に跡継ぎがどうとか、子供はまだか、などといった発言は普通にあった。当時から不満に思っていた人たちは多かったが表に出る情報がただ少なかっただけであり、今では完全にアウトの発言だ。

SNSではハラスメント行為の告発や、ジェンダーの問題についての投稿、多様な声が上がり、多様な情報を取得することが出来る。それが時代の常識となり、社会の常識が形成されていく。そこに全く入っていない人がいたら当然ギャップが生まれて老害と断じられてしまうだろう。

世代間のギャップはいつの時代も起きている。「近頃の若い者は…」という言葉は江戸時代の書物にも書かれており、どの時代においても何かしらの世代間格差はあったのだ。

だが、この数十年のメディアの進化と変化は著しい。いつの時代も起きている世代間のギャップもイノベーションの数によってさらに広がる。

当たり前の話だが今、20代の人たちは20年後、40代になる。2045年にはAIが人類の知能を超えるシンギュラリティという現象が起きると言われているが、それは今まで人類が経験したことも無いようなパラダイムシフトが起きると言われている。もしかすると、人類史上、最も世代間のギャップが起きる時代になるかもしれない。極端に言えば現在の20代は史上最も老害と言われる世代かもしれないのだ。

老害という言葉は明日は我が身。誰しも訪れる老化という現象と、メディアをはじめとするイノベーションとテクノロジーの進化。人生100年時代に突入しようかという中で100年という長い時間は多くのイノベーションを生み出す。明日は我が身であり、ローテーションで回ってくるのであれば、対立や分断はもうやめよう。支えあいでよいではないか。

今、私は40代。2045年には60代だ。既に新しいSNSを使いこなすのはやや億劫になっている。これが問題なのであろう。若作りする必要はないが、常識から外れることは良いとは思わない。このままだと2045年には完全に乗り遅れた老害になってしまうのかもしれない。そして私の娘が2045年には20代だ。せめて娘には頭の固い老害だとは思われたくない。

年齢を重ねてくると、成功体験も積み重なり「これでいい。これがいい」となってくる。それに固執をすることによって変化を嫌い、新しいものを受け付けなくなる。そんな事は思わないようにしよう。なぜならあと20年後には今までの成功体験などバカバカしいくらいのテクノロジーの進化が待っているのだから。